学生による早稲田のスポーツ応援プロジェクト「ワセダウィルウィン」は終了しました。現在はアーカイブとして公開しています

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平成最後に「早稲田のスポーツ」を語ろう

友添秀則
早稲田大学教授・理事
スポーツ倫理学・教育学
×
木村和彦
早稲田大学教授
スポーツ経営学・観光論
×
神原一光
ワセダウィルウィン
初代副代表 (2002卒)
友添秀則早稲田大学教授・理事
スポーツ倫理学・教育学
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木村和彦早稲田大学教授
スポーツ経営学・観光論
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神原一光ワセダウィルウィン
初代副代表 (2002卒)
プロフィール

新元号「令和」が発表され、日本のスポーツ史においても語るべきことが多い
「平成」という時代がまもなく幕を下ろそうとしている。
時を同じくして、この平成の世に産声をあげた
早稲田のスポーツ応援プロジェクト「WasedaWillWin」も、
その役目にひとつの区切りをつけることになった。

スポーツと早稲田の接点を隈なく見ていけば、
「早稲田のスポーツ」をもっと魅力的にできるはずだ。

その思いから、誕生から18年間にわたり、
取材先を体育各部以外にも広げ、ファン、学生、校友、指導者、教職員、
ときには選手自らも発信源となって「早稲田のスポーツ」をつなげ、
盛り上げていった「WasedaWillWin」のメディア活動。
そこにはどんな意義があったのか? そしてこの間、
「早稲田のスポーツ」を取り巻く環境はどんな変化を遂げてきたのか?

平成最後を機に、「WasedaWillWin」にも寄稿いただいた経験のある早稲田大学スポーツ科学学術院・友添秀則教授と木村和彦教授、そして、本プロジェクト発起人のひとりである神原一光(初代副代表・02年人間科学部卒)の鼎談を通して検証してみたい。

01: 勝利至上主義からの脱却2019/04/17

神原

新元号「令和」が発表され、いよいよ平成ものこりわずか。スポーツ目線で振り返っても激動の30年でした。そのなかで「平成の早稲田のスポーツ」を一言でいうと、どんな言葉を思い浮かべますか?

木村

そうですね。“プロ化”が進展したことでしょうか。

友添

一言でいうには難しいですね。「早稲田の黄金期、再び」、というところを期待を込めて。

神原

そんな平成の真ん中である平成12年(2000)に「早稲田のスポーツをもっと盛り上げよう」と僕たちが学生時代に立ち上げたのが『WasedaWillWin』でした。

WasedaWillWin.com 初期のスクリーンショット

木村

覚えてますよ。なんだか変な奴が怪しいこと始めたなと(笑)。

神原

変な奴という、そのあたりのところを今日はお聞かせください(笑)。「早稲田のスポーツ」と言っても、体育会だけじゃなくてサークルでの活動もありますし、ファンもいるし、それこそ先生方の教壇、いわゆる教育としてのスポーツだってあるわけです。しかも、ファン、関係者、地域、OBと、スポーツに関わる方々も大勢います。それらを全部包含する、包み込むようなメディアがあってもいいんじゃないかと。そこでまずWEB版の『WasedaWillWin』を2000年11月に立ち上げ、その後に紙版も発行。木村先生にはその第1号でインタビューにお答えいただきました。

木村

不思議なのは、神原君は庭球部の選手だったよね? 庭球部なのに、なぜ早稲田の競技スポーツを超えたプロジェクトにしようと思ったの?

神原

当時、早稲田のスポーツ全般で勝てない時期がありました。ア式蹴球部が都リーグに落ちてしまったり、競走部も箱根駅伝は予選会からの参加でしたし、野球部もラグビー蹴球部も思った以上の結果が残せず、世間からは「早稲田凋落」と評される状況でした。ただ、実際にメディアで書かれている記事を見て、「いや、早稲田のスポーツの魅力は勝ち負けだけじゃないんだ」ということを、当時、一学生として強く感じたことが大きな動機でした。

木村

なら、男女アベック13連覇を果たした今の庭球部にいたら思わない?

神原

確かに、そうだったかも知れません。全力を出しているけれど、なかなか日本一になれなかった。だからこそ、その思いが増幅したのかもしれません。ただ、そんな疑問を周囲の人たちに話したところ、「早稲田スポーツ新聞会」の記者にも同じことを感じていた方がいたんです。それだけじゃなく、他のメディア系サークルや体育各部にも同様のことを感じている人たちがいて、「スポーツには様々な視点があるじゃないか」「だったら、みんなが集まって早稲田版の『Number』を作ろうじゃないか!」と盛り上がったのが始まりです。

木村

その「様々な視点」には、「今」だけじゃなく早稲田スポーツの「歴史」や「文化」も含まれるわけですよね。そこが素晴らしいと思うんですよ。実際、面白いことを考えるなぁと思ってビックリしながら最初の取材を受けた記憶があります。

神原

友添先生はいかがですか? 確か当時、早稲田に着任されたばかりだったかと。

友添

木村先生が平成11年(1999)に来て、私が翌12年(2000)に来たばかりで、早稲田を外から見ていたからこそ、今、話があがったように「早稲田スポーツ、ちょっと“眠れる獅子”になってるな。大丈夫か?」という気持ちがありました。ただ、他方ではちょうどあの頃、景気の低迷も重なって日本の競技スポーツ全体が低迷していた時期でもあったんです。そんな中、平成13年(2001)JISS(国立スポーツ科学センター)ができ、早稲田大学でも平成15年(2003)のスポーツ科学部設置に向けて動きだしていた。そんな状況で神原君がやって来て「こんなこと始めるんですけど」と言うから、「いや、もっと大事なことあるだろう」って(笑)。

木村

(笑)

神原

(笑)

友添

何が大事かといえば、早稲田を強くするスポーツメディアよりもっと根本的なところ。「早稲田のスポーツを考えるほうが大事じゃないか」と言ったんです。そうしたら、「いや、このプロジェクトは単に“勝った・負けた”に着目するんじゃないんです。むしろ、スポーツ科学というものを僕たちは意識していて、新しいスポーツの時代を早稲田からどう発信するのか。学生自らの手でやってみたいんです」といった話を非常に情熱込めて語るものだから「変な奴だなぁ」と。

神原

やっぱり変な奴だと(笑)。

友添

実際に出来上がった記事を見せてもらったら、木村先生が「スポーツの教壇から」というコーナーに登場していて、「木村先生、教室での授業よりも力を入れて話してるなぁ」と思いましたね(笑)。

雑誌「Start!」と、収録されている「スポーツの教壇から」

友添

そしてもうひとつ、「やっぱり草の根から早稲田スポーツを考えて、そこから発信してくことは大事だよな」と感じたので、途中から『WasedaWillWin』の活動を応援する側に変わっていったんです。まさかその後に、自分がこのプロジェクトの顧問になって欲しいと頼まれるとは思いもしなかったですけどね。


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