学生による早稲田のスポーツ応援プロジェクト「ワセダウィルウィン」は終了しました。過去のサイトはアーカイブとして公開しています
アーカイブ(PC用サイト)神原
去年、スポーツ界全体に関わることとして社会問題化したのが、大学体育会での体罰やパワハラ問題です。友添先生の専門分野である「スポーツ倫理」が問われた平成最後でもありました。スポーツの正義を守り、価値を高めるための「スポーツ・インテグリティ(※)」といった単語も使われ始めています。庭球部の現役学生からも「コンプライアンス」という言葉も聞くようになりました。ただ、社会人ならともかく、大学という教育機関に所属する学生たちにまで「コンプライアンス」と言わせる環境ってどうなの?とも感じています。こういった問題について、あえてお聞きしたいと思います。
スポーツ・インテグリティを脅かす要因
木村
大学の体育会自体の体質は、そんなに変わってないような気はするんですよ、特に指導者に関しては。ところが、メディアも含めて社会の側が変化した。「もうこんなことは許されないんだ」と、常識が変わった。社会も世論も変化する中で、大学体育会、あるいは高校の部活動も変わらないといけない。「スポーツには人々を幸福にし、社会を善い方向に導く力がある」だなんて簡単には語れない時代だよ、ということだと思いますね。
友添
木村先生が言ったように、昔も今も変わらないというか、昔もインテグリティを脅かすような行為はあったんです。ただ、大きく変わってきたのは、やっぱり社会の感受性が高くなってきた。それは敏感に感じとらなきゃいけないことだと思います。当然、暴力やいじめを肯定することは、大前提としてあってはならない。
神原
その通りです。
友添
他方で、昔の学生アスリートと今の学生アスリートの大きな違いは、昔の学生アスリートというのは、耐える能力やレジリエンス、つまり回復力がもっと優れていた面もある。
神原
体力的な話ではなく、精神的な耐性の意味ですね。
友添
今の子は、もちろん競技者としては一級品なんだけど、何かつまずくことがあると途端に弱くなって、さらにはメンタルをやられてしまうと、もう回復不能になってしまう。
木村先生や我々の学生時代と大きく異なるのは、スポーツだけをやっていればいい世の中ではなかった、という側面かと思います。つまり、家が貧しかったりして野球をやるにしても道具がなかなか買えない状況で、それを超えてでもやりたいという気持ちが強いわけです。だから、耐えることができるというか、耐えようとする。でも、最初から道具にも環境にも恵まれている今の子たちの場合、何かにつまずいたときに、そもそも耐えようと思えないのかもしれない。
木村
あとは、日本的スポーツの仕組みが影響している部分も大きいと思います。トーナメント型で、一回負けたらハイ終わり。みたいな大会が多すぎます。大学みたいにリーグ戦であれば、一回負けても次があり、失敗が許される。でも、今の高校生は、高校野球に代表されるトーナメント的で、失敗が許されない試合ばかり。しかも短期的ですよね。指導者の側も、せいぜい2年ぐらいで結果を出さなきゃいけない。そのために……という側面もあると思います。やっぱり日本のスポーツの仕組みそのものから考えていかなきゃいけない。
神原
特にインターハイ、高校野球に関しては、酷暑の中で連戦させることに対して、世間の風当たりも強くなっています。
木村
本来、そういったことを統括団体が率先して考えなければいけないと思うんですが、彼らはもう、全国大会の主催者でありたいだけ。スポーツ経営の点から言うと、やっぱりそういう統括団体の問題というのはあると思います。
友添
運動部の持続可能性はかなり危機的な状況に来ています。決定的な要因は、やはり少子社会だから。たとえば、高校のレベルでいうとインターハイ、中学校の全中でもいいですが、なぜ地域の総合型クラブのチームが予選に出たらダメなのか?こういったことも真剣に考えなければいけない時期にきています。
他にも、インターハイの開催時期は今のままでいいのか?一年でもっとも暑い時期に2週間で大会をやる必然性は本当にあるのか?それなら春の選抜でもう充分じゃないのか。木村先生のご指摘通り、あまりにも大会が多すぎます。中学校でも本当に全国大会が必要なのか、そういったシステム面から見直す必要がありますね。