学生による早稲田のスポーツ応援プロジェクト「ワセダウィルウィン」は終了しました。過去のサイトはアーカイブとして公開しています
アーカイブ(PC用サイト)神原
平成の時代には、早稲田スポーツのみならず、大学スポーツ全体で「指導者」のあり方も大きく変わった点かと思います。私が学生の頃まではギリギリ、土日に手弁当で来てくださるOBの方に監督・コーチをしていただくスタイルが多かった。それが、スポーツ科学部ができた頃(2003年)からプロとして監督・コーチをお願いする動きが高まっていきましたね。
友添
確かに、この10年・15年という平成後期の間に、大学スポーツにもプロ化の現象が一気に入ってきました。現実的に競技を極めてトップを狙おうとすればするほど、ボランティア指導者では限界があります。これは早稲田だけの問題ではなく、学生スポーツ全体の問題です。学生スポーツ全体のレベルが非常に上がったことで、早稲田に入ってくる学生にも、高校時代に世界ジュニアを制したような競技トップレベルの人たちが増えてきた。つまり、OBや先輩たちが扱えるレベルを超えた学生が入学してくるようになってきたのが、特に2000年以降の大きな特徴だろうと思うんですね。
神原
平成18年(2006)には「トップアスリート入試」も始まって、その流れがさらに加速した、という感じでしょうか。
友添
そんなアスリートを伸ばすには、OBのなかでもプロとして大成したような人物に頼むか、あるいは専門的な人にお願いするか。必然的に指導者もプロ化していくわけです。大学側としても、額はまだまだ安いかもしれませんが、重点競技を中心に専従のコーチを雇えるような、いわゆる「強化指導者手当」を出せるようになってきたのも大きな要因ですね。
神原
平成14年(2002)から始まった「アディダス社」とのパートナーシップ契約、現在の「アシックス社」との包括的提携(※)といった外部資金の調達も背景にあったのでしょうか?
アシックスキャンパスストア早稲田(27号館1階)
友添
そもそもの大学予算の部分もありますので一概にはいえません。ただ、指導者手当に関していえば、他大はもっと出しているように思います。
神原
そういった話を聞くと、『WasedaWillWin』が立ち上がった2000年頃というのは、本当に最後の牧歌的な時代だったんだなと改めて感じます。
友添
2000年頃というのは、日本全体の競技力も底の時代。さらに、世紀の変わり目に大不況もあって、社会全体が低迷しているような状況でした。そこからなんとか立て直していこうと試行錯誤をしていた頃で、私も木村先生も当時、実はまだ状況がよくわかっていなかったともいえます。そんななか、学生が純粋に声を上げて『WasedaWillWin』を立ち上げたというのは確かに牧歌的でもあり、学生諸君のほうがよく見えていた、ということなのかもしれません。
木村
いやー、だから先見的だったんですね。
神原
そんな位置付けをしていただいてありがとうございます。
友添
まあ、我々も当時は見えてなかったですよね。こんな時代になるとは。
木村
だって、友添先生も私も、まだ国のスポーツ政策に関わってなかったときだから。
友添
関わってない。むしろ、反対してましたから(笑)
神原
当時、国のスポーツ政策に反対していた先生たちが、一転、関わるように変わったのは、やっぱりこの低迷期をどうして乗り越えていくか、という使命感だったんですか?
友添
いや、そんなかっこいいことではないですよ。ただ単に引っ張りだされたようなものです。
木村
そうそう。そもそも、スポーツ競技団体というのは、できれば国から自立するのがいいんだという考え方でしたから。スポーツ協会の仕事なんかをしていると、「国が上から目線であれこれ命令してくるのはダメだ。スポーツ団体は政治や政府からの干渉をできるだけ避けて独立・自立しなきゃいけない。そのためにも独立財源だ」と言っていた時代でしたから。
友添
まあ、我々は“モスクワ世代”ですから。1980年のモスクワ五輪ボイコット(※)は私も木村先生も大学4年生のとき。本当に渦中の学年だったから、あの経験はすごく大きいものがあります。やっぱりスポーツというのは、民間が自立的に、自主的にやるべきだということを本当に嫌というほど肌身に感じて。だからこそ、誰かに言われたからでなく、学生たちから内発的に『WasedaWillWin』という活動が立ち上がったことに対しては、純粋に敬意を表したいという思いがありました。