学生による早稲田のスポーツ応援プロジェクト「ワセダウィルウィン」は終了しました。過去のサイトはアーカイブとして公開しています
アーカイブ(PC用サイト)神原
私が早稲田大学に入学したのが平成10年(1998)なんですけど、それ以前、憧れて見ていた箱根駅伝のことを思い返すと、確かに法学部や理工学部のランナーが走っていたり、早稲田で箱根を走りたいがためにわざわざ浪人をして入学して、「4年生で初めての箱根路を走りました」というような実況を聞いて、「早稲田って面白いなぁ」と思っていました。そして、私が入った当時の庭球部にも、政経もいれば商学部や法学部もいて、“全学感”みたいなものはあったような気がします。そう考えると、ちょうど過渡期というか、入れ替わりの時期だったのかもしれません。
木村
今はもう、部員の多数がスポーツ科学部生という状況の体育各部がほとんどです。
神原
『WasedaWillWin』では活動趣旨として「早稲田のスポーツの距離感、あらゆる距離感を縮めよう」というテーマを掲げていました。大学と学生、体育会と同好会、学生とスポーツ……。あらゆる距離感をもっと縮められるはず。むしろ、そこにもっと魅力があるはずだ、というところから議論が始まった経緯があります。
この「距離感」という点が、平成ではどう変わったか。先生方、どうお考えですか?
木村
やっぱり地理的・物理的な影響はありますよ。そもそも、昭和の時代まではほとんどのスポーツ施設は、早稲田キャンパスや戸山キャンパスにあったわけです。そこで一般の学生も野球部も庭球部の学生もみんないて、練習している様子も見ることができ、ときには一般学生が「自分も入ってみようかな」と思えたりする環境がありました。それが、東伏見に移り、所沢に移り、本部のキャンパスの学生から活動内容が見えなくなってしまったことも大きいと思います。やっぱり地理的・物理的な影響はありますよ。
神原
「安部球場(※)」が西早稲田から東伏見キャンパスに移転したのは昭和62年(1987)。東伏見合同合宿所と東伏見体育館が竣工したのが平成5年(1993)。その後、他の施設もどんどん東伏見や所沢に移転しました。平成における早稲田のスポーツということでいうと、「距離的な早稲田離れ」という点は重要なトピックスだったということですね。それに呼応して、推薦などの入試制度改革があり、「専門性の特化」という、また別の距離感を生み出したのかなと。
木村
専門性の特化……そうですね。ある意味で学生スポーツもプロ化していったと。
友添
その結果、学生スポーツが「文武両道」から「文武別道」になってしまった。まあ、これは教員目線の見方なんでしょうけども。
木村
距離感という意味でいうと、学生自身が自分の興味・関心のあること以外については接しなくなってきています。それこそ、平成の時代に起きた変化といえば、スポーツメディアがものすごい勢いで増えてきて、個人個人の興味関心に対応できるよう、細分化されていきました。
スマホをちょっと見れば、プレミアリーグの情報が手に入ってしまう。自分の好きなものをクリックすれば、すぐに情報の海に到達するから、それ以外は見ない、というのがもはや当たり前です。
神原
学生スポーツでもそれは顕著ですよね。箱根駅伝でも、今や1区から10区まで、すべての選手がツイッターのアカウントを持っている時代です。どの選手がどういう気持ちで走っているのか、それこそメディアを介さずともダイレクトにわかるわけです。
実は『WasedaWillWin』立ち上げ当時の人気記事に、競走部の櫻井勇樹選手(※)の日記連載がありました。
神原
櫻井選手は、平成14年(2002)の箱根駅伝10区区間賞を獲得し、総合3位に入り「古豪・早稲田復活」の立役者の一人でしたが、これも「選手と学生の距離を縮めるなら、選手自身の発信を掲載しよう」という考えから始めたことで、実際、アクセス数もとても高かったんです。
それが今や、選手がメディアを介さず、直接発信する時代になってきました。メディアとスポーツ、メディアとアスリートとの関係が大きく変わってきたことも、平成最後を機に『WasedaWillWin』の役目を終えるタイミングであることを示しているのかなと。
木村
今や学生メディアだけじゃなく、新聞やテレビといったマスメディアでもそういう落ち込みをしているわけですから。『WasedaWillWin』だけじゃなく、メディア全体の役割の変化、という感じがしています。